気の合う仲間だけでつるんだっていいじゃない。「コミュニケーションするのが善」という前提は何なのよ。そうとも限らないと思った次第。

昔書いた日記シリーズ。2007年、11年前から。
この頃の自分の考え、忘れかけてたけど、今も共感できるなぁ。


「最近ブログ更新してないじゃん?」という声があって、やっぱ、このブログにもニーズがあるんだと身に染みてね、くぅ~、ほんと感動した (;_;)

まあ実は、更新するネタがないわけじゃなくてな。
友人から『東京ファイティングキッズ』 という本を勧められたので、その感想でも書こうかと思ってたわけだ。
で、まずは気になった箇所、ハイライトをピックアップ!

他人とともに生きてゆくということは、当然のことながら様々な我慢と妥協そして共感と信任といったアンビ ヴァレントな関係性を引き受けることです。それをあたりまえのこととして自分の風景のなかに取り込んでゆくことだとおもうのですが、どうも他人というものが「異物」でしかないような「個」が生まれつつあるような気がします。このホッブス状態って、消費文明の行き着いた「病巣」のように思えます。ここでは、 確実に知性というものが減衰しているように見えます。
というのは、人間の言葉とか知性といったものが鍛えられるのは、言葉が通じないという経験や、知性が及ばない集団や共同体との交流ということの中にしかないと思うからです。
言葉が通じない、なかなか判ってもらえないというところではじめて「情理を尽くして語る」という言葉づかいが生まれてきて、そういった言葉の交流のなかでこそ、相手に対する信頼や承認ということも意味をもってくる のだと思います。
言葉が通じる、自分の考え方がすべて理解されるという場所では、言葉は限りなく堕落してゆきます。自分が属している共同体の中 で自己完結するだけでなく、共同体の外に対しては排斥力を育ててゆきます。自分たちだけの符牒としての言葉は、それを使わないひとたちを敵として、あるいは異物として排除するための差別指標へといともたやすく転化してしまうということをぼくたちはずいぶんたくさん見てきたわけです。
他人も自然 も、そこに自分が存在する以前から「在る」という認識が「共存」するという発想につながってくるのだと思います。
そして、自分が存在する以前から存在しているものに対しては、どんなに理解不能な、わずらわしい存在であったとしても、かれらの先住権を認めるというのが、インテリジェンスをもった人間のマナーというものであると思うわけです。(p122-123)

とか、

これまでも繰り返し語っていることですけれど、自分の言葉が通じ、自分の感受性が共感され、自分の価値観を共有してくれる相手とであれば、誰だって共生できます。だから問題はそんなところにはないのです。
メディアは「言葉が通じる相手、感受性が共感 できる相手、価値観が同じ相手」だけで構成されたメンバーズオンリーの閉じられた小さな共同体を作ることがいかに「気持ちのよいこと」かを繰り返しアナウンスしています。
そりゃ、たしかにそういう小集団の中でぬくぬくしているのはさぞや「気持ちがいい」ことでしょう。でも、それだけでは「社会」 は成立しません。
いまの国際政治の危うさは、「価値観が同じ相手」とだけパートナーシップを組み、ことばが通じない相手を「境界線の向こう」に排除しようとする恐るべき「単純主義」(sinplisme)が支配的なイデオロギーになっていることです。
あるイデオロギーが「支配的なイデオロギー」と呼ばれるのは、それを批判する言説でさえもが、そのイデオロギーに固有の言葉づかいをしてしまう時に限られます。・・・(中略)・・・
社会関係を構築するということは、端的に言えば「不快な隣人」を排除することを自制することです。「不快な隣人」はたしかに不快です。それを好きになれと言ったって無理です。でも共生しなければならない。だとすれば、「好きな人とだけ共生する」という身勝手な原理は退けられねばなりません。
いまの社会でいちばん欠けていることの一つは、「不快な隣人と共生するためのマナー」でしょう。(p131-132)

とか、ほんと何?
いいじゃねえか!?

言葉が通じる相手だけ、気が合う仲間だけで、楽しんだっても、いいじゃねえか!?
そういうワイドなコミュニケー ションを要求する今の社会の風潮が、海外駐在員の自殺とかを、招いてるんじゃないのかい?

だって疲れるでしょ?
やれ「世代の違う人と触れ合うことは大事」「文化が違う人と触れ合うことで見えてくる自分がある」だの、そういう話は聞きあきたぜ。
わかってるっつーぁh が:hが!
おっと、あまりに熱くなりすぎて、キーボードを打ち間違えた(汗)

ほんとね、グローバリズムとかを批判している箇所とかもあるが、この「共生」に関する箇所に関しては、グローバリズムという価値観に迎合してるんじゃねえのか?この本の2人は?
そう思わないかい?
なぜ「不快な隣人と共生する能力」が大事なの?

結局、何を求めてるかってのが知りたいのね俺は。
「不快な隣人と共生するマナー」を身につけることで、何が得られるかって話ですよ。

けどその点に関しては、全然掘り下げてなかったな。
「何かを得るために身につけるわけじゃない」ってか?

いや違う。必ず得られる、もとい、得られる可能性が高くなる、特に”金”は!
そう、「金を生むため」だろ?

狭い地域に閉じこもってたんじゃあ、市場はすぐに飽和しちまう。だから新たな市場を開拓するため、新たな工場を建てて現地人を低賃金で雇うため等で、必要なんだろう?「不快な隣人と共生するマナー」ってやつが?ワールドワイドなコミュニケーション能力が!

だから英語とかやらせるんじゃないのかい?
「不快な隣人」とも共生する能力を見つけて、異文化交流して、世界の情勢を把握して、金脈を発掘しろ Yo~的な、文科省のカリキュラムと言ってること同じじゃねえの?就職セミナーとかでよく聞く話と同じじゃねえか?
つまんねえ話だ!

『東京ファイティングキッズ』とか言ってね、全然ファイティングしてねえっつーの!
既存の価値観を推奨してるだけよ。
すげえありきたりな話。あたり前田の、・・・それぐらいつまんない。
「クラッカー」って言えないからね、俺ぐらいになると、”・・・前田”で止めれるから。
あまりにもベタすぎて、言うのが恥ずかしい感じってわけs。

まあでも、ちゃんと読んでない、拾い読みしかしてないから、まだ「つまんねえ本」と断罪するわけにはいかない。しかも、せっかく勧めてくれたのに、バッシングだけで終わると、勧めてくれた当人もあんまいい気分じゃねえだろうからな。
一緒に映画観に行って、「すげ~よかった~」って余韻に浸ってる時に、連れに「大した映画じゃねえな」って言われた時の気分だ。
自分の趣味・嗜好が否定されていい気がする奴なんていねえ。
だからちゃんと読んで、また次回更新するとき、もう1回この本を取り上げてみるかな。

いや別に、言ってることが間違ってるとは思ってないの。
大事だと思ってるさ、そういうワイドなコミュニケーション能力、不快な隣人と共生する能力、この資本主義社会で生き抜くために必須の能力だと思うぜ。

わかってる。行動には移せないけど、わかってるつもり。
だから「間違ってる」って感じてるわけじゃなくて、「つまんねえ」「無感動」「聞き飽きた」っていう感覚に近いな。
そう、大事だよそりゃ~。
不快な隣人と共生する能力を身に付ければ、今よりも収入が上がるかもしれないし、今よりも幸せな生活を送れる可能性が高くなるだろうよ。

でも今よりも、死ぬ可能性も高くなるかもしれない。海外駐在員として中国で勤め続けて、気の合わない現地人とコミュニケーションをする必要性に迫られて、胃をやられるかもしれない。自殺したいぐらい気分が落ち込むかもしれない。

だからトレードオフの関係。「不快な隣人と共生する能力(≒金や名誉を手に入れる能力)」を求めると、「精神を病むリスク」も高まっちゃうと思うから、何もせず惰性の日々を過ごしているわけだ俺は。

いや、俺だけじゃない!お前もそうなんじゃないのか?
気の合う仲間だけで、サークルの中だけでワイワイしてるだろうが!?

でもいい。
今回だけは、お前を肯定してやる。

ワイドなコミュニケーションを求める資本主義の風潮に、一石を投じてやるぜ。
YouTubeからのおすすめ曲、スモール・サークル・オブ・フレンズを聴いてほしい。

内向きでコミュニケーションの能力の低いお前を肯定してくれる、1979年のディスコナンバーだ。

まあ歌詞は、探したけど見つからなかったからよくわかんないが、たぶん「今夜は、いつものメン バーでワイワイしようぜ?」「仕事で気の合わない人と話すのはほんと疲れるわよね・・・でも今夜は違うの。あの時のメンバーで集まって、朝まで踊るんだ ♪」的な、「不快な隣人と共生すべし」という価値観に対する、アンチテーゼだこの曲は。
スモールでいいじゃねえか!?
たまには「小さな共同体」で、楽しんだっていいじゃねえか?

この反-資本主義的な曲を、1979年に既にリリースしてるって知った時、ほんとビビったね俺は。

それに対して、東京ファイティングキッズ的なナンバーをセレ クトするならば、Underground Resistanceの『Hi-Tech Jazz』かな。

URが掲げるスローガンは、本当にカッコいいね。
すごいハードボイルド、俺の居場所はアンダーグラウンドだけだぜ!俺のレジスタンスに参加し てくれ!ってね、はぁ~言ってみたいな~。

テクノには、人種を超えて楽しめる可能性がある。決して、無機質な機械音の塊じゃねえぞと。
俺達のレジスタンスは、『Nation 2 Nation』(民族から民族へ)、『World 2 World』(国から国へ)、『Galaxy 2 Galaxy』(銀河を越えて)響き渡る、音響革命なんだ!

まあそんなノリなのよ。

ただ、こういう考えもどうかと思うけどね俺は。

もちろん、この曲自体は素敵よ。「デトロイト・テクノの最高傑作」って言われてるのも頷ける。
ただURのスロー ガンに安易に共感するってのは、”逃げ”なんじゃないかって。
「宇宙船地球号」だの、「地球市民」だの、「国境なんてない」みたいなヒッピー的な価値観に傾倒することで、自分の立ち位置を曖昧にしてんじゃねえのか?って思うのさ。
現実を見つめてない感じ。だいぶ前に、ケンコバが「落ち込んだ時、動物園に行くと癒される」ってテレビで言ってたが、それに近い。

宇宙だの人種だの国境だの、壮大なテーマ、日常から遠いテーマにフォーカスすることで、「はぁ、100g500円の肉とか買えんわ~」とか、「今の俺の給料で、家庭とか作れんのかな」とか、もっと自分に関係のある些細 日常、自分の現状を、相対化して見つめることから逃げてんじゃねえのかって、思うのよ。

だから結局、スモール・サークル・オブ・フレンズも、ハイ・テク・ジャズも、その価値観や世界観に共感することで、無意識的に自分のコンプレックスを肯定したり、自尊心を維持したり、自分を正当化したりしてるんじゃないかってね、最近思うね俺は。

とある女から、「あの人は確固たる価値観を持っているからステキなの」みたいな、そういう話を小耳にしたせいもあったな。
「そいつの価値観に価値なんてねえよ?0円だろうが!?」ってね、言いたかったぜ俺は。
そうだと思わない?

その価値観が、そりゃURみたいに、ちゃんと音楽市場という俎上にあがって、多くの人が賞賛したり、経済的な利益を生んだりす りゃあ、「ああ、●●さんの価値観ってすごいな~」って思えるよ。だって、ある程度の普遍性を持った”経済”という尺度で、利益を計上したという事実は、その価値観が相対的に支持を得ているっていう証拠だろ?

でも「●●君は確固たる価値観があってステキ」とか、「●●先輩は自分のポリ シーを貫いててステキ」とかね、全く意味不明だぜ。
そりゃあんたから見りゃ、素晴らしいものとして映ってるのかもしれねえけど、第三者から見れば、その人知らねえし、そもそも伝わってこないから、価値なんてねえと思うんだよ。
というか、わからない。
広い土俵に上がらなきゃ、その価値がステキなのかどうかなんて客観的な判断つかねえはず。
にも関わらず、ステキなんて思ってるのは、ほんとお前だけが思い込んでるだけ、思いこみだろうが!?

ていうか、その●●君だとか●●先輩の価値観を信じることで、自分を肯定しているに違いねえ。
そうじゃねえのか?

●●君や ●●先輩は、コンプレックスを肯定してくれる、自己愛を満たしてくれる等、自分にとって都合のいい価値観を供給してくれるから、そいつらの価値観を「いいもの」として選択して、このブログとかで出されてる価値観は、見ざる聞かざる言わざるの態度で排除しているんじゃねえのか?
それは結局、「逃げてる」ってことなんじゃねえの?「甘えてる」んじゃねえの?
清濁併せ呑めよ!?
俺みたいに、お前を否定するような人間、お前を否定するような言説に直面した時でも、耳を傾ける覚悟を持てよ!!
それって大事なことなんじゃないの!?

まあ別に逃げてもいいのか。それで上手く事が進むなら、それはそれで問題ないのかな。

はぁ、なんか説教臭くなったな。
こんな話しても、面白くないよな…。

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