エヴァンゲリオンの考察本を読んで「死に至る病」は”絶望”で、その正体は”認識の増殖”に伴う”空想化”であると把握した

かなり昔の本、「エヴァンゲリオン 深層解読ノート」(エヴァ哲学進化研究会/大和書房)を読んで、興味深い一節を見かけたので引用。

p86~89――『死に至る病』をエヴァンゲリオンは癒せるか
 キェルケゴールは、「認識が増えるほど人間の自己が浪澱される」とする。
 たとえば、「それはちょうどピラミッド建設のために人間が浪費されたようなものである、もしくはかのロシアの管弦楽におけるように、各自がただ一つの音以上でも以下でもありえないような具合に人間が浪費される」(『死に至る病』セーレン・キュルケゴール著、斎藤信治訳、岩波書店)とまでいっている。
 同様に、「感情、認識、意志」が増えるほど「自己」が増えて、「意志」が希薄化し、空想化するともいう。
 こうして、「自己」はいくらでも増えて、いくらでも希薄になるとキェルケゴールはいうのだ。そして、「絶望」することとは、こうした自分のなかの「自己」に絶望することだというのだ。
 わかりやすくいえば、ある女性がだれかに恋愛をし、彼が死んだ、または裏切られたと思って「絶望」したとしよう。彼女は、自殺さえも考えるだろう。これは、いったいどういったメカニズムによるものだろうか。
 彼女の心には、彼を愛してしまったことによって、最愛の彼が含まれた「自己」が出来上がっていた。それなのに、まず彼に「絶望」すると、彼なしの「自己」しか残らない。この「自己」は、さらに「絶望」する対象でしかない。
 これは、彼女にとって耐えられない、空しい「自己」になる。彼がいたらこの上なく愛らしい「自己」だったはずなのに、「今となってはいまや厭うべき空虚となった、或いはまた嫌悪すべきものとなった」(前掲書)のだ。
 彼という認識が彼女のなかにまだないとき、つまり、彼と会う前、彼を愛する前には、彼のいない「自己」が存在していたはずのに、彼が一度、彼女の「自己」に取り込まれると、二度と切り離すことができないものになるのだ。
 この「自己」をエヴァの物語に置き換えていえば、一度、エヴァンゲリオンに乗って、「楽しさ」を知ったシンジは、もうエヴァに乗ることなしでは、「自己」を保てなくなるということだ。
 そして、エヴァに乗る以前の自分を嫌悪し、さらにはエヴァから逃げる自分も嫌悪することになる。これは、「嗜癖(しへき)」といわれる状態に近い、というよりそのものだろう。アルコールや薬物の中毒にも共通する、自分の能力以外のなにかに自分の存在理由を依存する状態だ。
 このエヴァに乗ることになる以前には、あれだけ憎んでいた父親に、エヴァに乗ったことでほめられたことも重要なポイントだ。この点は、第壱章でもふれたが、テレビ版より、コミックス版のほうが明白で、「(自分をほめる)その言葉を、あの時、あの場所(病室の前)で聞きたかった」と心に思っている(コミックスVolume1)。
 その結果、第12使徒レリエルのなかに取り込まれても、シンジは、「あの父さんにほめられたんだよ」という自問自答をしている。このとき「ほめられた」ことは、また再びほめられる自分でありたい、という「自己」認識を生むことになる。
 この第拾六話の冒頭でミサトに「ほめられた」ことは、この「父さんにほめられた」ことの代償行為ともなっている。または、ミサトではなく「父さんにほめられる」ようなことをしよう、という動機ともなるものだろう。
 だからこそシンジは、モノローグで「このことばを信じたら、これからも生きていけるさ」とまでいっているわけだ。
 けれども、非常事態が終息すると即座に、「悪いのは父さんだ」「ぼくを捨てた父さんだ」という『自己』が現れる。ここには、「ぼくを捨てた父さん」にほめられて喜ぶ「自己」を嫌悪する「自己」がシンジのなかにあるのだ。
 こうしてみると、エヴァ登場人物の行動や心理が、このキェルケゴールの「自己」とそれに対する「絶望」の概念でかなりの部分、説明される。
 なによりも、多くの人が疑問だとした、シンジがエヴァに乗って戦ったかと思うと、再び逃げ出すというパターンが執拗に繰り返されること、これについてもわかりやすく説明できる。
 行動が不可解だという声が多かった、「逃げ出し」たのにもどってくるシンジの心理も、この観点からいうとしごく当然のことだ。この「病」の根源を癒さない限り、シンジのさまざまな「自己」への「絶望」は、永遠につづくこととなる。
●アルコールや薬物の中毒
アルコールなどの過度の摂取や薬物の必要以上の、または用途外の摂取などによって得られる酩酊状態や意識の混濁に依存し、現実から逃避するため、または、それによってしか精神の平衡を保てなくなったために摂取を続けることで、その物質なしでは自己を維持できない状況。

浪澱って書き間違いか、”浪費”だたぶん。
20年以上も前の考察本だけど、素晴らしい。

「認識によって、自己が浪費される」って話ね。
それによって自己の増殖、意志の希薄化を招くっっていう話。何となく、理解できる。
例えばテレビ番組のバラエティで、芸人が落とし穴に落ちたり、チャップリンとかMr.ビーンの喜劇とかもそうなのかもしれないが…そういった「笑い」というエンターテインメントを“認識”することによって、日々の労働の辛苦や不満が希薄化され、自らのアイデンティティが権力に対して従順なものとして変容する可能性があるとしたら。
バラエティ番組は、イデオロギー(人間の行動を一方向に仕向ける政治的言説、扇動的言説、無意識に働きかける言説)を持っていないようで、実は「既存の権力に対する反発心を抑制(抑圧)した主体を構築する」という点で、イデオロギー的であるかもしれない。
なんて、イデオロギー論に落とし込んでみたけど、もっと領域を広げて話すと。
「バラエティ番組を認識する」という自己の浪費活動によって、得られる喜びや楽しみは確かにある。「ガハハ」と笑って、身体にも作用する心地良い時間を過ごすこともできる。だけどその時、その瞬間、確かに自分の意志は希薄化している…ことないか?
自己の中に、テレビに出演する”芸人”という他者が取り込まれる。そうなると、自己はおそらく変容する。確かにその芸人は”笑い”を提供してくれる存在ではあるが、同時に、その芸人と自己を比較・相対化することで、「俺もこんな風に笑いを取りたい」だとか、「この芸人みたいに綺麗な女性と付き合いたい」だとか、空想化も推進されている。
現実の自己はそうではないから、不満が溜まっていく。
そういった嫉妬心や競争心などを煽る事柄の摂取が反復され続け、ストレスが蓄積され続けていけば、どうだろう?自己に取り込まれた他者の存在によって、自己は大いに揺るがされ、絶望へと突き進んでいく。その極地は”死”に他ならない…。
なんて語ってみたけど、どうよ。説得力あるかい?
自己が絶望へと突き進む過程を詳らかに記したと思われるキルケゴールの本も、また読んでみたいな。
そこにもしかしたら、絶望の鎖を断ち切るヒントが見いだせるかもしれない…。
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