夢に出てきたサラリーマン金太郎と夢と映画の同質性について

「うっ・・・」と、思わず目を覚ました。
激しい嫌悪感と恐怖を抱いたのは、「血」を見たからだ。
悪夢だった・・・人が殺されたんだ。
被害者は”高橋克典”(たかはし・かつのり)っていう、『サラリーマン金太郎』とか『特命係長・只野仁』とか、俺とは正反対の熱血、「魁!!男塾」的な、男らしさが売りの俳優だ。

どんなシュチュエーションか忘れたが、犯人は”女”だった。
高橋克典はその女を走りながら追いかけ、何かの”写真”を、奪おうとしていた。
女は高橋克典よりも足が速いのか、手を必死で伸ばす高橋克典に対し、写真が取られないギリギリの間合いを維持していた。
写真を前後左右に動かし、魚に餌を与えるかのごとく、完璧に女は高橋克典を翻弄していた。

そして高橋克典と共に、二人の男がいた。
この二人が誰かは思い出せないが、その二人も、一緒に女を追いかける。
けどサラリーマン金太郎で、「金太郎よりも仕事も出来ず、ケンカも弱く、女にもモテず、いつも下」のポジションとして存在し、金太郎の魅力を引きだすのに最大限利用されていた”恵俊彰”(ホンジャマカ)と”勝村政信”の二人組ではなかった、気がする。

とにかく場面には、”4人”いた。

そして遂に、高橋克典は”写真”を奪ったんだ。
すると隙ができたのか、女は懐に忍ばせていたナイフで、高橋克典のどてっ腹を刺した。
悲鳴をあげる暇も無く二撃目、女はナイフを剣のように振りかざし、顔からへその辺りまで一直線に斬り裂く。

高橋克典の体から、ありえないほどの鮮血が吹き飛び、見るに耐え兼ねない状態。

さらに異常なのは、その高橋克典の血を見て、周りの二人が「笑ってた」んだよ。
共犯?
そして場面が変わり、なぜか連れの二人も地面に”仰向け”に横たわり、血にまみれ、”雨”に打たれながら笑みをうかべていた。
その笑みからして女には刺されてないだろうが、その異常な状況が、なおさら不気味だった。

そして俺は、目を覚ましたのさ。
グロテスクな夢だった・・・
ストーリー的には、全く意味不明。

夢ってのは「映画」とちょっと似ている気がする。
イメージ(像)を、紡ぎ合わせる感じ。
映画は「連続写真」とは、違う。
連続写真は「時系列」に、物事が展開する。

普段の生活でも、自分やみんなは、物事を時系列に展開させている。
というか時系列にしか、展開させることができない。時を操ることはできない、国家に匹敵するほどの「権力」っていう例えは変だけど、それぐらい強大な力っていうか性質があるよね時間ってのは。

従わないと”異端”のレッテルを貼られることもある。
朝何時に起きて飯を食い、学校や会社に行き、また電車に乗り、一日を終える・・・その日常に、時系列を無視し、例えば「恐竜が出現する」ということは、絶対にあり得ない。

いや、もし恐竜が出てきたとしても、また時系列に物事は進む。
「視点の領域」は、限りなく狭い、「一つの場面」しか見ることができない。
自分の眼に映る世界は「視野は180度程度」で「奥行きは数キロメートル」しかない。

しかし~<夢と映画>、時間の概念も超えられる?映画だけじゃないかもしれないけど、とにかく夢と映画で話を進めていこう。

夢と映画は時系列を無視し、大抵の人間が持つ180度の視野、数キロメートル先しか見えない視力という”限定的な視点”を、超越する。

と、ここで疑問に思うのは、普通に生きていても時系列を無視することはできるかもという話で。
会社で働いているとき、脳内で「恐竜」や「死神」といった虚像を作り出し、想像の産物に浸ることで<日常で展開する時間>を、無視してみよう。しかしその試みは、失敗に終わる。
限りなく低劣で、精度の悪い自己欺瞞であり、何ら時系列の束縛を超越することは出来ていない。

しかし夢と映画は、確かに自己欺瞞の面も残っているかもしれないが、この二つの領域は現実の日常よりも断然、時系列を超越できている。
といっても、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『バタフライ・エフェクト』、『ドラえもん』の様に、「タイムスリップ」の要素が出てくる映画のみが、時間を超越しているわけじゃない。

ほとんど全ての映画。時系列に展開されているようで、時系列を無視している。
映画のDVDには<チャプター>が必ずあるけど、それは「ある時間帯のワンパッケージ」と言える。
チャプターは一体、どんな根拠、理由で区切られているのはわからないけど、なんとなくわかることはある。

チャプターとチャプターの間には、必ず「時間や場面のズレ」が、存在している。
チャプター1からチャプター2に行くとき、場面が”オフィスビル”(チャプター1)から”海”(チャプター2)に変わるように。
それは「時系列を無視」し、「人間の視点を無視(超越)」しているという点で、<現実では絶対に経験することができない行為>と言えるといいますか。

オフィスで仕事をしていても、場面は海には変わらない。
例えオフィスで海のVTRを見ても、それで「時系列を突破できた」なんて、どうしても思えないだろう。

けど映画と夢は「時間の束縛を突破する」というフィクションを、限りなくリアルに近づけることができる。自己欺瞞じゃない、もっと精度が高い。

まず映画館が暗いのは、「時系列を突破するための伏線」でもある。寝る時にも、部屋を暗くする。

「恥ずかしい」ということで、部屋を暗くするカップル。
この「暗くする」という行為は理性を麻痺させ、洗脳に陥りやすい状況を作りだす。
犯罪も、夜の方が多く起きていないですか?寝ているときも、頭が冴えていない。
頭が冴えていないからこそ、時間の壁を突破できる。
「映画館を暗くする」というのは、「睡眠・催眠の状態」を作り出すのと、同じではないかと。

そして理性が低下し、睡眠、催眠や洗脳の状態で、あることが行われる。

それは「時間や場面をコピー&ペーストし、無秩序に再配置する」という行為、夢と映画、両方とも、その側面がある。
その無秩序の世界は、「時系列の無視」と「人間の視点の限界突破」という二つの大きな特徴、これはまずあるといってもいいだろう。

無秩序なんだが催眠状態にあるため、また技巧が施されている(時系列を無視しているが、それでも観客の想像で埋めれる程度に抑えている)がゆえに、違和感を感じない。映画に対する”先入観”もあるだろう。かなり異常な光景、本当は。

未開社会の原住民に映画を見せると、次のような反応を示すらしい。
例えば映画を観ている途中で、「画面から消えた男はどうなった?」と、尋ねてくる。
原住民たちは、その男の”演技”はもう終わった、映画上のストーリーでその男はもう必要ないということが、理解できない。
他にも「鶏がいた!」と言ったり、ストーリー上何の役割を果たさない物体に、興味を抱く。

つまり原住民たちは「時系列に純粋に従っている」んであり、「自分の目に映るイメージ(像)すべて真実」と、みなしてる。
これは映画が、「時系列を無視している」「人間の視点の限界を超越している」ってのを、背理法的に証明するだろう?
原住民が異常なんじゃない。純粋に自分の眼に移るもの、体で感じることを、信じてる。
異常なのは映画や我々の方だと、十分言える。映画といった虚構のフィクションに没頭し、涙を流したり笑ったりするが、原住民たちは、その映画の異常性と虚構性に洗脳されない。

まあ映画に関してはこのぐらいでいい、”夢”の場合も、似たようなことが言える。
今までの人生の記憶のコピー&ペースト、いや、「カット&ペースト」と言うほうがもっと相応しい。
映画でも「カット!」と使うように。

人生の記憶、今までに見たイメージ(像)が無秩序にカットされ、その断片を、パッチワークのように再構成する。
映画と同様に「時系列の無視」と「超越的な視点」が、存在する。そうじゃない?

俺の場合は、昔見たサラリーマン金太郎、ヴィレッジ・バンガードで見たグロテスクな写真、残虐なホラー映画、女・・・そういった記憶が無秩序にカットされ、一つの作品として再構成され、夢となった。
「Cut&Reconstruction」(切り取り&再構築)という名称が相応しいでしょうか。

まあそんな名称はどうでもいいとして、それよりもとにかく、この「時系列を突破できる感覚」は、「人間は誰しも求めてる」と、こじつけて終わろう。なぜなら「時系列を突破する」という試みは、「日常から脱する」という試みと、全く同じだから。なんとなく予想ができる時系列の日常に飽き、映画を観たり、旅行に行ったりする。
ドキドキワクワクしない、時系列に束縛された世界には。予想ができちゃうから。

大抵の人間は「時系列の束縛から逃れたい」と実は思っているし、だからこそ映画や夢はエンターテイメントとして楽しむことができるのではないかと。
そして映画よりも夢の方が、快楽の上限や恐怖の上限といった”感動の幅”が広い。なぜなら夢を見ている時の方が、理性は麻痺し、洗脳に陥りやすい状態だろうから。

だからまた夢を見たいと思うけど、できれば今回みたいな悪夢じゃなくて、次はポルノグラフィックなやつがいいなぁ。

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