松本人志のベタな笑いのスゴさを真剣に語る

オリラジのあっちゃんが松っちゃん批判を展開したというニュースも去年の話。
とはいえやっぱり「笑いのセンス」という点では、茂木健一郎の件とは関係なく、中田敦彦の笑いが松本人志の笑いを越えているとは考えにくい。

松本信者ではないが、松本人志が行った笑いのすごさ、面白さを、この記事では示していきたいと思う。

◆いきなり感なくナチュラルに日常から非日常へシフトする世界観

「ゲッタマン」のコントでは、最初は単なる特撮ヒーロー番組の撮影現場。
原作者がいて、監督がいて、メイクさんがいる。
どこにでもありそうな、日常的な風景ではないかと。
それを20分という尺を使って、非日常へと少しずつ変えていく。
日常的な風景を、軽い提案や、誰にでもある欲求、いたって普通の行動で「いきなり」ではなく、ソフトに非日常へと変貌させていく。

このコントも日常的な「部活動の先生と生徒のやり取り」から、「ステップナー」という意味不明な非日常感あふれる部活へと導かれていく。決して「いきなり」ステップナーの世界を押し付けてはいない。
「西高の村瀬みろ」「すみません」といった日常的な会話を織り交ぜ、すごく自然にコントの非日常的世界に「気づいたら入っていた」というように仕向けられていく。


◆リアリティの保持

これもよくある日常の風景、母・子・先生の三者面談。
しかし、先生の発言が少しずつ、理不尽な発言になっていき、どんどん日常が消えていく。
ゲッタマンと同じく、いきなり奇抜なことをしたりギャグを言うことなく、徐々に非日常な世界へと導かれていく。
板尾創路松本人志の語り口調は、本当に先生が生徒を叱る時のようにシリアスで、東野幸治の困惑は、本当に喫煙の疑惑をかけられた真面目な生徒のように無垢。
そのようなリアリティのある三者面談の光景がしっかり意識され守られながら話が膨らんでいく。

このコントも、インタビュアーと職人というリアリティのある光景を、少しずつ壊していき非日常的な違和感を持つ世界へ変えていっている。

これでおわかりではないだろうか?
松本人志の笑いが非常に繊細でリアリティを意識しているということを。いきなり頭の上に沢庵載せて「シュールだろ?面白いだろ?」みたいな笑いとは一線を画している。言葉やジェスチャーを連綿に積み重ね、違和感を少しづつ出し、大きな笑いに変えていく。

決して「武勇伝武勇伝♪でんででんでん♪」みたいなルーティンの後に「あっ、ボケるな?」と、展開が読めるような大喜利的でカットイン的なボケではない。

とかいうと松本信者特有の「笑いわかってますよ」「松本の笑いは分かる人しか分からない」感が出てしまうと嫌なんだが、そうじゃない。「よりベタな日常に寄り添っている」のが松本人志の笑いであって、決してシュールだったり高尚な笑いじゃないのよ。

松本人志以前はカットインのボケが多かった。「だっふんだ!」「おさむちゃんで〜す」「欽ちゃん走り」など、特定の動きや決まったジェスチャーをいきなり行うボケ。それに全く違うフェードインの笑いを持ち込んだのが松本人志で、だからM-1で「漫才の歴史は彼以前、 彼以後で別れるすべての芸人がリスペクトするお笑い界の生きる伝説と」と形容されるのもあながち嘘じゃなくて、松本人志が持ち込んだ影響なのかどうかは断定はできないが、日常に徐々に違和感を加えていく系のコントはたくさんある。

中田敦彦のように“やたら神聖化されてないか?”と、若手や中堅芸人の中では松本人志の何がすごいのか捉えきれていない方も多いと思うが、そういう視点で松本人志のコントをぜひ観てほしいと思うし、松本人志のコントや漫才をしっかりと触れることなく批判を展開するのは、やっぱり傲慢に感じてしまう。また、言葉で批判すんじゃなくて、漫才やコントやパフォーマンスで松本人志に立ち向かっていくべきじゃないのか芸人ならば。

そして松本人志のフェードインの笑いは映画にも持ち込まれていて、特に「R100」は秀逸だった。

R100』にはあり、『しんぼる』にはない繊細さ

『しんぼる』では、「神」をテーマにしているせいもあり、松本人志の魅力である「日常が知らず知らずのうちに滑稽な、でも現実味を残した非日常に変えられてしまう」フェードインの笑いを存分に体感することが出来なかった。
しかし『R100』では、少し特殊なサービスが味わえるSMクラブと、少し変わった性癖を持つサラリーマンといった「ありそうな日常」が出発点となっている。
この「ありそうな日常」を、「いきなり」変な世界に変貌させるのではなく、些細な言動、些細なSMプレイ、少し変わったプレイ等、ほんの微々たる異常をゆっくり、鑑賞者にも気づかれないぐらいのレベルで日常の世界に積み重ねていき、気づいたらすごく滑稽な世界に連れて来られている。

この「鑑賞者を極めて繊細に非日常的世界に迷い込ませる手法」は、先に紹介した松本人志の『ゲッタマン』や『柳田という男』とも共通している。

R100』への松本人志のコメントから窺える、《滑稽な世界=非日常的世界》を生み出す際の慎重さ

さや侍』がわりと映画らしい映画だったので、今回はとにかく振り切れるだけ振り切って、100分間でどれだけ暴れ回れるかの挑戦だった。メチャクチャな内容だからこそ、映画として成立させるために、今回初めて台本をきっちりつくり、一流のプロにも演じてもらい、とにかくおもしろくならないように、コメディにならないように意識した。

出典THE BIG ISSUE 日本版 VOL.224 2013 OCT.1

コメディやお笑いにおける「いきなり奇抜な言動をする・ギャグをする」といった“わざとらしさ”“あざとさ”を徹底的にそぎ落とし、非日常への世界へ、気づかれずにフェードインさせることへのストイックさが窺える。

これで少しはわかってくれたか?松本人志の笑いは「シュール」ではなく、むしろベタでありふれた日常生活の延長に展開されていることを。

あっちゃんもこれ読んでたら、松本人志高田純次が行ってきた笑いと向き合うとことなく批判するのではなく、彼ら大御所と呼ばれる人たちの笑いを継承し、盗み、自分の笑いの糧としていく守破離の精神で、がんばっていってほしいもんです。

これからも東海テレビ『PS純金』を楽しみに観ます!

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